『STILL LIFE』をまとめることを決めたころから、今の自分にとって一番切実な日常は何かな、と考えるようになりました。私の日常生活や物事にたいする考え方は、震災後大きく変わったなと思います。自分の生活の一番ベーシックな部分に大きな影響を与えた、という実感があって、それはきっとその後の毎日を日本で暮している人たちが少なからず共通に感じていることかもしれない、と思います。そういう根本的な変化を経たあとの日常、それでも続く日常についてもう少し考えたい。
写真家である私にとって「考えることは見ること」。その場所から自分が何を見て、感じて、考えるのかを確かめるため、去年の夏には陸前高田を訪れました。また、先日南相馬をはじめて訪れ、『ワカラジ』の皆さんに会いました。
(その時の様子はコチラをご一読ください。)
そして、あれから4年と、もうすぐ2ヶ月。
2015年5月6日。南相馬市に撮影に行きました。
建てたばかりの荷解きもまだ終わっていない若い家族のための家。
中学時代から使っている学習机が今もある部屋で大人になった彼女が過ごす家。
江戸時代から続く神社のお堂と同じ敷地にある古い家、襖を取り払えば大広間になるような畳敷きの部屋と、部屋を取り囲む廊下と縁側、縁側の向こうに広がる野山の風景。
みんなの暮しがあまりにも当たり前に普通に存在しているので、
普通であると改めて言うこと自体を疑う。
そういうそれぞれの生活に、あれから4年と2ヶ月ですね、
といちいち念を押そうとすることにどういう意味があるんだったかな。
私はこの景色はこのように眺めるべきである、と言いたくないし、言われたくもない。
レンズ越しに眺めながら、景色の中には時間が重層的に存在する、
だからそうやって織り重なっている時間の一部分だけを取り出して
何か断定的なことを言うことはできない、
と考えてみれば当たり前のことを思いました。
PRELIBRI 一之瀬