これまでの写真という概念は
科学の進化と人間の意識によって変貌しつつある
〜写真家 所幸則のアインシュタインロマン〜

写真家所幸則が生まれたのは今日5月12日が誕生日の小昏真理がいたからです。2002年6月永眠。


彼女は24歳でファンションビル等のADに抜擢された女性で、僕は売り出し始めたばかりの28歳〜29歳位のエアーブラシと大型カメラ+あらゆる暗室技法を駆使しつつもビビッドな色調をつくりあげポップにしたIDマガジンの表紙のようなトンがった方向性だった。

その頃彼女は伊島薫や五味彬といった当時一番際立った写真家としていたようで、それは彼女のファイルにも残っている。その次に依頼してきたのが僕だった。しかもポップだけでなくファンタジーな方向性の提案もしてくれて、実に彼女の提案とそこから生み出す僕のアイデアの相性は良かった。2年間彼女は僕に簡単なキーワードは投げるがほとんど僕にまかせてファッションビルの広告を2年やらせてくれた。そのごの10年の僕の方向性を決めたのは彼女だったのかもしれない。

そんな彼女が26歳の時にクリエイティブディレクター兼アートディレクターをやめて僕の元で働きたいといって来た。24からスポンサーとのプレゼンテーションや会社でのやっかみ他にもいろいろあったんだろう、疲れたからしばらく違うことをしたいと思ったらしい。それと僕のところにたくさん並んでいるマックを含めてパソコンや絵の道具を見て未来を感じたということもあったのかもしれない。

僕は彼女が所写真事務所に入ったことで、作品を作る以外のすべての雑事から解放された。ただなんとなくの色だったり、女性でお願いしますだったり、自由に撮れば生活できる生活が10年以上続いた。

一生続くかに思えたけれど、、彼女は2002年6月19日に永眠した。僕が彼女から遺言を聞いたのは3月の終わり頃だった。

実はその1週間前に医師と、彼女の父から彼女は間違いなく夏まで持たずに死ぬと聞かされていた。絶対に本人にはいうなと言われました。
(なんと1998年末に倒れて大手術をして生還したと思って2人で喜んでいた時、医師と彼女の両親は余命2年と言われていたのだそうだ。)

彼女は僕が彼女の父から真実を聞いた後すぐに大体のことは理解していたそうだ、表情喋り方、仕草でわかったといっていた。だから2日後には本当の事を話すように頼まれ話さざるをえなかった。

その5日後に私の話を聞いて、絶対に忘れないでと言って遺言を話し始めた。

「私とトコで作った写真家所幸則という存在を決して無くさないで、それが2人で一緒に生きた証だから、怖いから5日前には一緒に死んで欲しいといったけど、所幸則は生きて孤高の写真家で居続けてください。これが最後の望みよ」

その言葉があるから僕はココにいます。

そしてアインシュタインの命日からこのファンディングを初め大体中間地点の5月12日が今日。

最終日は彼女の命日でありアッシュペーフランスMARUNOUCHIウィンドウズギャラリーでの個展の始まりの日でもある。

なにか縁を感じるのはぼくだけだろうか。

この写真は1998年末の大手術を終え、奇跡的な回復を見せた1999年の6月ヴェネチアンビエンナーレに2週間行っていた途中に2日だけフィレンツェに2人で小旅行に行った時に泊まった素敵なプチホテルにチェックインした直後の写真。

2015/05/12 23:11