被爆3世、26歳の挑戦。
わたしが先生をやめてでも「今」やると決めたこと。
〜《被爆の継承》のための本づくり〜

NAGASAKI HAPPEACE PROJECT 「田中安次郎さん(76)と被爆地遺構巡り」

■被爆遺構に目を凝らす

長崎原爆の被爆者を祖母に持つ被爆三世、松永瑠衣子は8月中旬、代表を務める「誰にでもできる被爆の継承」をテーマとして活動する「NAGASAKI HAPPEACE PROJECT」(NHPP)の取り組みとして、被爆者である田中安次郎さん(76)=長崎市矢の平=と長崎原爆の被爆遺構を巡った。当時、爆心地から同心円状に広がった甚大な被害。物言わぬ遺跡に刻まれた被爆の実相に目を凝らし、奪われた命の尊さを時代を超えて伝える被爆遺構の意義を再確認した。 

■爆心地こそ慰霊を

田中さんが案内したのは爆心地を中心に周辺の遺構を巡る約2時間のコース。長崎市平野町の長崎原爆資料館をスタートし、平和公園や市立山里小、浦上天主堂や山王神社二の鳥居などを見学した。

田中さんは上空約500メートルで原爆がさく裂した爆心地について「ここを中心に被害が広がった。この場所こそ慰霊の場である」と強調。原爆投下の2日前と投下約1カ月後に撮影された二つの写真を見せ、松山町98軒の家屋を含む周辺一帯が焼け野原になったことを伝えた。その上で、核兵器を「無差別かつ大量に人を殺す兵器」と断じ、「人の尊厳がなかった」と話した。

■世界が希求する平和

次に訪れたのは毎年8月9日に「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が開かれる平和公園。田中さんは園内の施設などについて解説。当時、のどをからした被爆者が水を求めたことから設けられた「平和の泉」では、噴水が平和の象徴であるハトの形に吹き上がること、地面にある赤色のタイルが原爆の炎を表していることを伝えた。

また園内には世界16カ国からモニュメントが寄贈されていることにも触れ、「平和」は世界中が希求しているものであることを改めて強調した。一方で「平和」に不可欠な核廃絶が進まないことに歯がゆさもにじませた。

 

■「生きるとは 」

爆心地から約600メートルにあった山里国民学校(現山里小)。田中さんはこの小学校を「平和とは何かを考える場所」と紹介。同校では長崎原爆により当時、在校した1581人のうち約1300人の児童が亡くなり、職員らの多くも死亡した。また連日、救護所として被爆者の治療が続けられ、死者は運動場で火葬された。「いかに自由な世の中を生きているのか噛み締めてほしい」。田中さんはそう振り絞り、校内にある防空壕で黙とうを捧げた。(事務局長)

 

 ■遺構巡りを終えて

「戦争にはね、勝ちも負けもないんですよ。どっちも負けなんだ。」安次郎さんの言葉はとても重く、私の心の奥深くに響いた。原爆が投下されたとき、安次郎さんはまだ3歳だった。爆風で吹き飛ばされ家の瓦礫の下敷きに。当時の記憶なんて覚えているはずのない安次郎さんだが、戦争が終わった次の年もその次の年も、何年も何年も彼の顔の傷は癒えることなく学校でいじめられることもあったという。「原爆さえなければ・・・」何度そう思ったことだろう。それでも安次郎さん含む被爆者の方々は、後世に「復讐」を望まず「平和」に過ごしてもらうことを選んだ。怒りや憎しみの連鎖を断ち切り、私たちに「世界中に友達をつくりなさい。」と言った。彼らが戦争によって失ったものはあまりにも大きい。そして今も苦しみ続けている。だからこそ、私たちに「長崎を最後の被爆地に」「ヒバクシャはもう二度と生まないでほしい。」と訴え続けている。戦後73年経って原爆の記憶が薄れつつある今、彼らの切なる願いは私たちの未来のためだと知り、過去の史実を伝えていくことの重要性を改めて実感した。 (松永瑠衣子)

2018/09/07 16:28