取材3日目は、企画者久保田の祖母に顔と名前は出さない条件で、被爆体験を伺いました。
この企画展がなければ、今まで聞くことも、祖母から話すこともなかった8月6日の話。
当時珍しく英語が話せた祖母は、南方の留学生と交流があり「あの日は日本人以外にも沢山の外国人がいた。最近までずっと彼らのことが気がかりだった。」と話し始めました。
祖母自身は怪我も少なく、人を救護する側にまわったそうですが、
企画者の今の存在があるのは、この壮絶な時代を彼女が生き抜いて、命をつないでくれたからなんだなと。
話を聞き終わった後に思いました。