こんにちは、サウザンブックス「PRIDE叢書」編集部です。このたびは『僕を燃やす炎(仮)』プロジェクトをご支援いただき、誠にありがとうございます!
TOKYO RAINBOW PRIDEの共同代表の山縣真矢さんから、プライド叢書立ち上げに向けた応援メッセージ、そして、ご自身のライフヒストリーについてお話を伺いましたので、ご紹介させていただきます。
いま「PRIDE叢書」編集部では、プロジェクト成立に向けてPR活動を頑張っております。ご支援いただいた皆さまからも、SNS等にてこのプロジェクトの情報拡散にお力添えいただけますと嬉しい限りです。引き続き、達成向けて頑張って参りますので、どうぞ宜しくお願い致します!
毎年恒例、LGBT(セクシュアル・マイノリティ)の一大イベントとなったTOKYO RAINBOW PRIDE。現体制となって6年目の今年は5月6日、7日の両日に行われたフェスタ&パレードに105,000人が参加。パレードは5,000人という過去最大の規模となった。
共同代表としてTRPを支え、セクシュアル・マイノリティがプライドを持って生きられる社会の実現を目指してきた山縣さん。自身のライフヒストリーを踏まえ、これからの世代のためにやるべきことはなにかを聞いた。
ゲイである自覚を持てなかった10代の頃
宇田川しい 『僕を燃やす炎(仮)』にはティーンエイジャーの主人公がゲイであることによって虐められ、自分でも自分のセクシュアリティを受け入れることができずに自傷行為を繰り返すという場面があります。同じような状況にある若い人は多いと思うのです。
山縣真矢 確かにそうですね。アウティングによって一橋大生が自死した痛ましい事件を思い出させます。日本においてもさまざまな調査で、セクシュアル・マイノリティの若者の自殺や自殺未遂、いじめなどのリスクの高さが指摘されています。
宇田川 山縣さんご自身は若い頃、自らのセクシュアリティについて思い悩むことはあったのですか?
山縣 思春期の頃に悩んだということはなかったんです。私は岡山県の倉敷で生まれ育ったのですが、当時の地方ではそもそもセクシュアル・マイノリティについての情報はほとんどありませんでしたし、自分がゲイだということに気づくことが出来ませんでした。
宇田川 自分がゲイだと自覚したのはいつだったのですか?
山縣 今思えば、高校や大学の時代に、後輩の男の子を可愛いなあと思ったことはありました。ただ、それは口に出してはいけないことなのだと思っていましたし、自分は女性と付き合えると思っていました。はっきりゲイと自覚するのは25歳で東京に出てきてからですね。
宇田川 10代で自覚する人も多いことを考えると時間がかかったほうですね。
山縣 中高は軟式テニスや受験勉強、大学時代は合唱団の活動で忙しかったんです。大学を出てからは就職問題から逃避するかのようにバックパッカーとして2年くらいアジアを回っていて、自分のセクシュアリティに正面から向き合うことがなかったんです。
編集プロダクションに就職して上京する少し前くらいにOCCURの裁判(※注)を特集した番組をテレビで見て、セクシュアリティをめぐる社会問題があることを知りました。それで上京してからあらためて自分を見つめ直してみて、やっぱり男性が好きなんだとはっきり自覚しました。
宇田川 上京してからは新宿2丁目などのコミュニティに出入りするようになったのですか?
山縣 はじめに行ったのは「新宿ローズ」というゲイ映画館でした。そこで知り合った人に2丁目のゲイバーに連れて行ってもらったのが最初ですね。それからは2丁目の飲み屋や、クラブのゲイナイトなんかで遊ぶようになりました。また、LGBT当事者サークル「TOGETHER」やゲイの合唱団、テニスサークルなどにも参加し、人間関係を広げていきました。
宇田川 はじめは2丁目に1人で足を踏み入れるのを躊躇したっていう人は多いですよね。それで映画館なんかで知り合った人に連れていってもらうというのは一昔前の2丁目デビューの典型と言ってもいいパターンかもしれません。
HIVのボランティアからTRPの活動に
宇田川 飲み屋やクラブで遊んでいたゲイがTRPのような活動を始めるきっかけはなんだったのですか?
山縣 私はもともと新聞記者志望で社会問題全般に興味を持っていたんです。ただ、編集プロダクションから出版社に転職して月刊誌の仕事をするようになると目が回るくらい忙しくて、そのような活動をできる状況ではなかった。フリーランスになって少し時間ができたので、HIV関係のボランティアを始めたんです。それがきっかけでいろいろな「活動家」とつながることが出来て、紆余曲折あって、TRPに至るといった感じですかね。
宇田川 90年代の半ばくらいまではバブルの浮かれた空気の余韻が残っていた時代で社会問題に関心を持っている若者というのは珍しかったんじゃないですか。OCCURの裁判にしても当時はゲイからですら批判が少なくありませんでした。
山縣 私の父は高校の教師をしていて社会問題についての意識は高かったんです。だから父の影響は大きいかもしれませんね。
宇田川 お父様は山縣さんの活動を理解してらっしゃるんですか?
山縣 じつは自らカミングアウトはできなかった。その前に、知られてしまった。当初から顔も本名も出して活動していて、それが両親の目に留まったんです。5年ほど前に父の方から電話がかかってきてその話になったんですよ。否定的な態度ではなかったですけど、私のことを「女性になりたい人」と誤解していたんですね。いや、そうじゃないんだ、と。
宇田川 説明したんですか。
山縣 性的指向と性自認の違いを簡単に説明したくらいだったんですが、その後、自分でずいぶん勉強してくれて、今では私のセクシュアリティを理解してくれていますし、陰ながらTRPも応援してくれています。ただ母は未だに認めてくれません。昔の人だし仕方ないのかなと思っていますが。
宇田川 地方だとまだ家制度の名残があって結婚して跡取りを作ることが至上命題と考える人もいますね。
山縣 私の母親もそういうタイプかもしれません。ですから私はセクシュアリティ自体について思い悩んだことはあまりないんですけど、「家」をどうするかということについてはいろいろ考えた時期もありました。レズビアンのカップルとの偽装結婚なんかどうなのかなんて。
宇田川 ある時期、『薔薇族』で偽装結婚を推奨していましたしね。
若い人たちを救うために大人がすべきこと
宇田川 さまざまな悩みを抱えて苦しんでいるセクシュアル・マイノリティは多いですが、特にティーンの悩みは深いと思います。時には自死という悲劇にまでいたってしまうこともある。でも、誰か1人でも話が出来る人とつながっていたらと思わせるケースもあります。
山縣 ちゃんと話せる人とつながることは大切ですよね。
宇田川 たとえば山縣さんの場合、映画館で知り合った人に2丁目に連れていってもらうことでコミュニティにつながることが出来た。きっかけはなんでもいいので、とにかく誰かとつながることが出来ればと思うんですが。今はゲイアプリでの出会いが盛んですが、その場限りの関係に終わってしまうことが多いという話も聞きます。
山縣 その場限りの性的な関係だけでなく、友だちを作ることですよね。それには、友だちと出会える場所があるということが重要だと思います。そういう意味では2丁目も大事な出会いの場ですよね。
ただそれだけでなく、私たち大人がやらなければならないことは多いはずです。1つは教育現場の問題。若いセクシュアル・マイノリティがプライドを持って生きていけるような教育を実現すること。そして、問題を抱えた時に相談できる機関を作ること。これらは社会としてきちんと用意すべきものだと考えています。
※OCCURの裁判
1990年、動くゲイとレズビアンの会(OCCUR)が東京都の府中青年の家を利用した際、同宿の団体から差別的な扱いを受けたため、青年の家側に善処を求めるものの却下される。その後、OCCURが再び利用しようとしたところ青年の家が「青少年の育成に悪影響を与える」として拒否。1991年、OCCURが人権侵害にあたるとして提訴。1997年にOCCURの勝訴が確定。
山縣真矢(やまがた・しんや)
NPO法人東京レインボープライド共同代表理事。フリーライター/編集者。HIVの啓発活動に参加したことをきっかけに、東京で断続的に行われきたプライドパレードの運営に2002年から携わる。2011年5月、現在の「東京レインボープライド」立ち上げに参加。2012年9月から共同代表。
応援コメント
セクシュアリティに関するさまざまな書物との出会いが、私を育て、支え、励まし、私の「ゲイ・プライド」を培ってきました。大手出版社ではなかなか採算ベースに乗らないセクシュアル・マイノリティに関する翻訳出版を、クラウドファンディングという手法を使って実現していこうというサウザンブックスの「プライド叢書」シリーズ。この意欲的な試みに、ゲイの当事者として、また末端ながら出版業界に携わってきた者として、大いに期待するとともに、できる限りの支援をしていきたいと思います。まずは、第1弾、『ぼくを燃やす炎(仮)』を成功させましょう。