image

ニューヨークの地下鉄で自分の家族を見つけた
ある赤ちゃんとゲイ・カップルの実話
『Our Subway Baby(ぼくらのサブウェイ・ベイビー)』を翻訳出版したい!

ぼくらの選び取った未来の姿(発起人 北丸雄二より)

こんにちは、サウザンブックスPRIDE叢書です。
『ぼくらのサブウェイ・ベイビー』出版プロジェクトへのご参加、本当に有難うございます!
おかげさまで参加数は150名ほど、達成率はほぼ1/3となりました。
いまご参加いただいている皆様から、もう一段SNS拡散などにお力添えいいただきましたら、プロジェクト成立がぐっと近づいて参ります。拡散にご協力くださいましたら嬉しい限りです。


そして、改めて発起人兼翻訳者の北丸雄二さんから、本プロジェクトへの想いが届きました。プロジェクト成立まで、お力添えのほどをどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 


ぼくらの選び取った未来の姿(発起人 北丸雄二より)
 

東京2020の閉会式でこの歌 Chosen Family が流れたとき、ああこれは、まるで『ぼくらのサブウェイ・ベイビー』のことを歌った歌だなあと思ったものでした。
もっとも、この歌をこの閉会式のために選び取った(chosen)のプロデューサー陣はこれを、「連帯」「多様性」「差別のない」を旗印にした東京オリンピックを象徴するものとして使ったのだったのか? あるいは逆に、多様性も理解せず、同性婚はもとより同性パートナーシップの法制化や選択制夫婦別姓さえも拒む日本の旧態依然の政治世界の、それもジェンダー差別の何物かも人種差別の何物かも、ましてや性的指向や性自認の何物かも知らぬまさにオリパラ関係者(それも揃って上層部)の度重なる失言や不祥事への、せめてものお詫びと懺悔だったのか、それともそれら日本の内実にそうは通じていない諸外国の人々へ向けて、表面だけでも覆い隠そうと取り繕うために使ったものだったのか、よくわからなかったのです。

とりあえず、まずはその歌詞を読んでみてください。
一部分だけ翻訳してご紹介します。

Ooh
Settle down, put your bags down
さあ座って、バッグを置いて

Ooh
You’re alright now
もう大丈夫だから

We don’t need to be related to relate
家族になるために家族である必要はない
We don’t need to share genes or a surname
血や名前がつながっていなくたっていい
You are, you are
だってあなたは
My chosen, chosen family
私が選んだ家族
So what if we don’t look the same?
同じ顔じゃないならどうだって言うの?
We been going through the same thing
同じ道を生きてきた私たち
Yeah, you are, you are
そう、あなたは
My chosen, chosen family
私が選び取った家族


 Rina Sawayama - 'Chosen Family' with Elton John
 Chosen Family 歌詞 © Universal Music Publishing Ltd., Covered Infinities Ltd
 翻訳:Yuji kitamaru


いい歌詞でしょう?

ちなみに、この歌詞のキモは「We don’t need to be related to relate」の部分です。
「relate」という動詞は「関係がある、関係する、関係させる」「つながっている、つながる、つなげる」という意味です。一方で「relative」という言葉があります。こちらは「親類、親戚、身内」という意味で、「関係のある」「つながっている」人たちということ──2つの言葉の源は一緒です。この歌詞はだから、「relate するために related している必要はない」ということ。「関係する」という訳語にこだわると今ひとつ意味がわかりませんが、その奥にある意味に気づけば、ここでの「relateする」とはつまり「身内になる」ということ。そして「related している」とは「あらかじめ関係している」=「あらかじめ身内である」ということなのです。だから、「家族になる」ために、「家族である」必要はない、「血や名前がつながっていなくたっていい」「だってあなたは、私が選んだ家族」なのだから、です。

私はかねがね、「家族というのは、家族であろうとする/家族になろうとする努力のことなのだ」と言ってきました。今から30年近く前、ニューヨークに渡った時に、エイズの時代を生き延びている同性カップルたちが懸命に家族になろうとしていました。血がつながっている家族や親類たちが、エイズという病やゲイ/レズビアンであるというスティグマ(社会的汚名)のせいで簡単に家族を捨てることもあった時代です。そのとき、家族の「血」や「苗字」はなんの役にも立たなかった。むしろ、相手を家族にしたい、家族になりたい、家族であり続けたいという「思い」こそが「絆」だったのです。ニューヨーク市はそんなカップルに「ドメスティック・パートナー証明」という(法的にはさほど意味のない、けれど明らかになんらかの兆しである)盾を贈ったりしていました。それはやがて十数年を経て同性婚合法化(結婚の平等)に実を結びました。

どんなに今の現実がつらくみすぼらしいものでも、どこか他の場所には、善意の人たちがコツコツと築き上げている、小さいながらも美しいものがあります。「国家」だとか「大義」だとか、そんな大きな言葉が飛び交う「公」の世界の片隅で、ちょっとしたやさしさや思いやりやいたわりが、日々のつらさとみすぼらしさを埋め合わせてくれる。そしてそんな小さな善意と優しさとが、いつか時を経て政治とか法律とか、大きな言葉の行き交う「公」の世界をも変えていくことにつながるのです。

『ぼくらのサブウェイ・ベイビー』に描かれているのは、そんな「選び取った」第一歩と、そしてそこから「選び取られた」第二歩の姿です。
 

 

【9/9(木)開催:イベント情報】
北丸雄二さん著の新刊『愛と差別と友情とLGBTQ+ 言葉で闘うアメリカの記録と内在する私たちの正体』(人々舎)刊行記念オンラインイベントが開催されます。


詳細はこちらから

 

2021/08/24 13:33