文/黃靖雯
インタビュー/黃靖雯、同(トン)
インタビュー採録日/2018年9月26日
このストーリーは私たちの身の周りの日常のようにありふれたものであるが、しかし非常に異なるものである。子供のころから自分の性的指向を知る手がかりを持っている「T」(訳注・Tomboyを語源とする男性的なレズビアンを指す台湾のレズビアン用語)とは異なり、外見や性格が女性的でありながら、好きになる相手は中性的かフェミニンな女性である彼女たちは、ある程度自己を探究し、また何かのきっかけがあってはじめて自分が本当に愛するものが何なのかを知ることになる。彼女とパートナーがおしゃべりしながら街を歩く様子は、仲の良いおばさん二人組か親友同士のように見えるだろう。だが家に帰り部屋に入ってしまえば、彼女たちは肌を重ね合わせる同性の恋人同士だ。彼女たちはTバーやレズビアン・バーの存在を知らなかったし、自分たちを「T」や「P」(訳注・「婆(ポー)」を語源とする女性的なレズビアンを指す台湾のレズビアン用語)といった役割に当てはめる(訳注・異性愛における男女の役割をレズビアンの関係性に当てはめること。「T」が男性役、「P」が女性役となる)こともなかった。1990年代に起こったフェミニズム運動を経て、「T」でも「P」でもない「不分」というアイデンティティ(訳注・「T」=男/「P」=女には分けない、あるいは両者を自由に越境する新たなレズビアン・モデル)が登場するのだが、それ以降、彼女たちはどちらかといえば「不分」が自分とパートナーの関係性にぴったり合うと感じていた。
異性との結婚は、あの年代を生きる人たちにとっては「選択」のひとつではなく、避けて通ることのできない宿命だった。これは時代の無力な涙だ。女性の家庭における伝統的な責任と同性パートナーとのはざまで彼女たちはより多くの倫理的な呵責に苛まれ、両方を全うする余裕などなかった。子供たちが成長し巣立っていった時にようやく家庭の責任という重荷を下ろし、自分の人生の後半をスタートさせ、本当の自分を見つけるために残された時間との戦いに挑むことができた。紀余はそのような時代の女性の典型例であり、彼女の物語は異性との結婚に踏み切った多くの中高年レズビアンに共通する、時代的な様相でもある。
父権社会に囚われて
戒厳令下の1955年に生まれた紀余(ジーユー)は、同性愛について社会全体が沈黙を貫いていた雰囲気の中で育った。彼女が学校で勉強していた頃には言論の自由はまったくなく、「性的マイノリティ」の姿も見えなかったが、それは存在しないことを意味していたわけではなかった。50歳を過ぎて始めた自己探究の中で思い出したことがあった。それは男女別学だった中学時代に、教室の後ろの席に座っていたふたりの女子生徒のことだ。彼女たちはとても仲が良かったのだが、ある時そのふたりが同時に風邪をひき、同級生の間でふたりのうち、どっちがどっちに風邪をうつしたのか?という議論が巻き起こったことがあった——というのもこのふたりが互いに同じコップを使うことを許しあっていたからだ。これが紀余にとって「同志」について思い出すことのできる一番古いエピソードだった。
紀余はサラリーマンの父親と専業主婦の母親という平凡な家庭に生まれた。子供のころから何か習い事をしたいと思っても、父親からは「大きくなったら嫁に行くのだから、そんな必要はない」と言われて育った。中学生の時、一度だけ父親に「それじゃお嫁に行ってしまえば、死んで、消えた存在と思われるんだね?」と怒りをぶつけたことがあったが、傍にいた母親が困り顔で「女の子はお嫁に行って、子供を産んで、家事をするもの。それ以外には何もできないのだから」とその場を取り繕った。母親の言葉は紀余にとって到底納得できるものではなかったが、何十年もの青春の時間はこの家父長制による家族の考え方にとらわれることになった。
紀余たちの年代は、台湾で初めて9年間の義務教育を受けた世代であり、義務教育が終わった後は自力で大学入試に挑まなければならなかった。高校時代に自分なりのやり方で読書法を身に着けた紀余は、一流大学に入学を果たし、大学教育を受ける機会を得ることのできた、数少ない一般家庭出身のエリート女性のひとりになった。大学時代には年下の男性の恋人と付き合ったこともあったが、性格が合わず別れてしまった。そして大学卒業後は公務員の職に就いた。ただ、当時の給料は十分ではなかったし、また独身生活は一時的なものだろうと感じていた。人生の次のステップは「結婚」であり、借りる部屋にも暮らしにも妥協して、人生プランも立てずに、中途半端な気持ちで日々を送っていた。先輩や同僚を見ていても、結婚後は台湾の南部や海外に引越してしまい、それまで築いてきたキャリアは放棄するというのが常だった。それをもったいないと感じた紀余は、とりあえず結婚し、子供が育った後で自分のやりたいことをやろうと考えた。大学院を卒業したばかりの結婚願望のある男性と出会った紀余は、時間の許す限り毎日のようにデートを重ね、3カ月後にはその男性と結婚した。
結婚後、紀余はキャリアウーマンとして、仕事と家庭の間で両端に火を灯した蝋燭のごとく忙しい日々を送っていた。彼女の夫は「妻が外で仕事をするのは構わないが、仕事よりも家事を優先して欲しい」と考えていた。夫のいう「家事」には夫の実家の面倒をみることも含まれていた。高等教育を受け、経済構造が変化する中で中産階級の労働市場に参入することができた紀余だったが、家庭の中ではステレオタイプのジェンダーロールが依然として残っていたため、彼女は家族の世話を一手に引き受けることを前提に、フルタイムで仕事をこなさなければならなかった。
20年以上にわたり、紀余の人生は家族と子供たちの世話を中心に回りつづけた。また仕事でも30年間一度も昇進することなく、同じ行政機関の業務に携わり続けた。夫とはコミュニケーションを取るのが次第に難しくなっていき、言い争っても徒労に終わるので、押し黙るしかなかった。夫婦の心はだんだんと離れていったが、紀余は子供の成長に寄り添うことができさえすれば、夫婦間の愛情が無くても構わないとすら思った時期もあった。
3番目の子供が少し大きくなった後のことだった。紀余は思いがけず心にぽっかりと穴が開いていることを嘆き始めた——「私も愛されたい」。許佑生(訳注・1996年に台湾で初めて公開結婚式を行ったゲイの作家)が書いた『跟自己調情:身體意象與性愛成長(自分を昂らせる:ボディイメージと性愛の成長)』という本を読んだ紀余は、自分の身体に注意を向け始めた。本に書かれている通りに自分自身を愛撫すると、ゆっくりと体が目覚めていくのが感じられた。仕事や家事の忙しさにかまけてただ流れるままに時間が過ぎていっただけでなく、意思疎通のない夫とどうやって別れればいいのかわからずにいたが、3番目の子供がまだ幼かったこともあり、紀余は父母が同居しているほうが子供に与えられる利益が多くなるだろうと考えた。
40歳を過ぎた頃、紀余は所属する部署を代表して会議に出席する機会を得た。その会議である人物と出会い(当時、紀余はその人のことを「中性的でカッコイイ」と思ったのだが、後になってそういう人が「T」なのだと知る)、紀余は「あれこれ考え」始めた——直感的に「私も自分の事業を持てば、この人と一緒になれるかもしれない」という考えが脳裏に浮かんだのだ。その当時、紀余が同性愛を意識することはなかった。「その時はその人のことを見つめていたかったのですが、出来なかったんです。会議の間、その人はずっとうつむくように座っていて、ひと言もしゃべらなかったからね。一方でその時の私は、自分の職場の隣にあるビルで将来コンサルティング会社を経営してみたい、と思い描いていました。その当時、私は自己啓発講座に参加し、大衆心理学の本を読み漁っていたのですが、自分にはコンサルタントか自己啓発講座のリーダー役のようなものが向いていると思っていたからです。自分でもなぜか分からないけど『自分のビジネスを持ち』たいと、独立について思いを馳せていました」。紀余が独立したいと思ったのはこれが初めてのことだった。
しかし子供たちの世話に追われる日々の合間に自己啓発講座に参加する紀余に対し不満を持った夫が、暴力を振るうようになった(毎回大声で怒鳴られ、食って掛かられそうになると、素早く部屋に閉じこもったので打たれずに済んだが)。紀余は幾度となく身の安全を守るために家を離れ、子供のために戻ることを繰り返した。この時に思いを巡らせたことは、後になって紀余が自分自身を認識するための手がかりとなった。
退職後、本当の愛を模索し始める
50歳で退職した紀余は、仕事の代わりに自分の好きな事に取り組んだ。ある時、レズビアン専門の出版社によるコンテストの案内を見た彼女は、さっそくレズビアンにまつわる物語を書いて応募したのだが、それが思いがけず入賞を果たした。続きを書いてみたら、と出版社の社長に促され、紀余はその作品をもとに長編小説を書き上げた。出版社に投稿すると、その小説が採用された。「いかにそれらしく書いたかわかるでしょ!」と、紀余はとても嬉しそうだった。
一方、すでに壊れて後戻りできないところまで来てしまった結婚生活を目の当たりにして、紀余は疑問を抱き始めていた。「私は性的マイノリティなの?」。これまでの人生で女性に心惹かれた時のことをじっくり深く考えてみると、思い出されたのは40歳を過ぎた頃に参加した会議でひとりの「T」と出会い、あれこれ「考え過ぎ」たエピソードだった——それ以前にも、明るく元気な同僚女性に好意を抱き、仲良くしていたことがあった。同じ部署で働いていた学生アルバイトだった彼女は白い柔肌の持ち主で、心の中でちょっとだけ「いじわるしたい」と思わせるような、そんな子だった。紀余はこれまでの人生を振り返り、同性に欲情したことを俯瞰的に考えてみた。自分が同性に惹かれた回数と男性に惹かれた回数を数えてみると、どちらも5回ずつくらいだったことがわかり、大いに驚いた。その上さらに、紀余は子供のころから男性が好きではなかったし、特に結婚生活における夫とのセックスがことさら嫌だった。夫が求めるからいやいや応じていただけで、そこに愉しみを見出すことができず、「子供は生み終わったというのに、どうしてまだ夫の相手をしなければならないの?」とさえ思っていた。言葉にできずにいたそれらの経験を収めるべきところに収める可能性が、「同性愛」にはあった。
私は女性を愛しているのではないか?——それを確かめようと心に決めた。自分のこの欲求をきちんと言葉に表したい。在職時に習得したパソコンスキルのおかげで、オンラインデートが流行っていることを知った紀余は、立て続けに「2G(Two girls)」、「TO-GET-HER」、「Carolの家(Carol的家)」などのレズビアン専用のウェブサイトにたどり着いた。それだけでなく、電子掲示板「PTT」(訳注・台湾版5ちゃんねる)のレズビアン掲示板をかなり早い時期から利用していたし、またネットラジオ番組「Lezradio 拉子三缺一」からも多くの情報を得た。既婚者向けのオンライン集会に参加し、同じような境遇にあるネット仲間とも沢山知り合った。同性愛者向けのウェブサイトで知り合った多くの既婚で子供のいる母親たちは、自分と同じような苦境に立たされていることが分かった。若い頃は配偶者の選択肢に限りがあり、そもそも自分が本当に愛することができるのは同性なのだということを探る機会すらなかったのかもしれない(あるいは、自覚していてもプレッシャーに押されて異性との結婚に踏み切ってしまった)。家庭や社会、それに職場の期待に応えるかたちで異性と交際し、結婚に至り、同性との可能性について考えたこともなかったが、人生経験を重ねたのちに、ようやく自分が愛しているのは女性のほうだということに気が付いた。でもその頃には既に子供を産み、家庭への責任を負っており、全力で誰かを愛するのが難しい状況に置かれている彼女たちにとっては、2週間に一度、同じ境遇の仲間と集まる時間ですら貴重だった。
(以下略)
訳・小島あつこ
※原稿は作業中のものになります。完成版とは異なります
2022年9月9日(金) 19:30〜
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