第二章 師の到来
〔訳注:本作においては、ドゥルヨーダナの生まれながらの名は「スヨーダナ」とされている。詳しくは本記事末尾の解説を参照〕
スヨーダナに見えたのは三つの黒い影だった。少しずつ大きくなりながらハスティナープラに近づいてくる。まだ早朝だった。彼はぎしぎしと軋むマンゴーの木の枝からぶら下がっていた。弟のスフシャーサナはもっと高いところに登っており、熟したマンゴーを投げ落としていた。妹のスフシャラーが走り回り、広げた裾で実を受け止めようとしている。侵入者に怒ったリスたちがチイチイと鳴き声を上げていた。
朝早くではあったが、夏の日は着々と暑く、埃っぽくなってきていた。だが他の子どもたちと同様、三人の兄妹《きょうだい》は暑さを全く気にしていなかった。甘いマンゴーの熟した香りに比べたら、夏の辛苦などどうでもよかったのだ。それに、師匠《グル》クリパチャーリヤの鍛錬教室がもうすぐ始まる。そうなると、砦の外にあるマンゴーの木立に抜け出していくのは難しい。崖の縁に生えたこのマンゴーの木を兄妹たちが見つけたのは昨晩、ほぼ偶然のことだった。普通なら、まだ熟していない実まで貪欲なビーマに食べられてしまい、スヨーダナや弟たちは木立に近づこうとするだけで容赦なくぶちのめされるところだ。そういうとき、宮殿の衛兵たちはもっぱら見てみぬふりをした。誰の歓心を買うべきか、権力はどこにあるのかを知っていたからだ。
五人の荒くれ従兄弟は崖の下にいると分かっていたため、スヨーダナは安心していた。見晴らしのよい枝の上から彼らの姿が見えた。長兄のユディシュティラは脚を組んで座り、年齢に見合わぬ真剣さで瞑想している。ビーマは雑種犬を追い回していた。アルジュナは弓術の練習だ。揺るがぬ集中力で狙いをつけている。矢の向く先は鳥の巣であり、親鳥が雛に餌を与えていると気づいて、スヨーダナは震えた。警告の叫びを上げたかった。だがアルジュナが射る方が早かった。幸い、矢はからくも的を外した。アルジュナは憤慨して片足を強く踏み下ろした。双子のナクラとサハデーヴァは、布を丸めた球で遊んでいた。
スヨーダナが先ほど見つけた三つの人影はバラモンとその妻、そして八歳ほどに見える息子だった。背が高く色白で、たっぷりとした黒い髭をたくわえたバラモンがアルジュナに歩み寄るのを、スヨーダナは見つめた。バラモンの背後に立つ妻は、やせ細って衰弱しており、今にも倒れそうだった。彼らの連れている少年はじっとその場に立ち、大きな黒い目で不思議そうに周りを見ていた。そこにビーマが近づいた。目をぐるりと向け、少年を威圧する。少年の父親はアルジュナと話しており、その様子に気づいていなかった。ニヤリと笑んで指さしてくるいじめっ子に怯え、少年は母親の手をぎゅっと握った。崖を駆け下りてビーマと戦いたいとスヨーダナは思った。勝てないかもしれないし、ビーマには弟ともども叩きのめされるだろうけれど、あの細っこい少年が逃げ出す時間くらいは稼げるはずだ。
スフシャーサナもまたビーマを見ていた。彼は摘んだ中で一番大きなマンゴーを手にして立ち上がり、木のてっぺんからビーマに向けて振りかぶった。肉づきのよいビーマの顔面でマンゴーがべしゃりと潰れる様子を想像して、スヨーダナは笑んだ。あの太っちょめ、何をされたかも分からないに違いない。
その時だった。パーンダヴァの双子たちがいそいそと走ってきて何かを言ったのは。風が彼らの声を崖の上まで運んできて、井戸に布の球を落としたのだということがかろうじて聞き取れた。ビーマは小さなバラモンの男児に興味を失い、井戸に向かって走っていった。スフシャーサナはすでに完熟のマンゴーをビーマに投げつけていたが、果実は的を失って地面に落ち、藪の中へと転がっていった。
「兄さん《バーイー》、一番いいマンゴーを捨てちゃったの?」
幼いスフシャラーはぐずった。
「黙れよ!」
スフシャーサナは不機嫌に反駁する。スヨーダナは唇をとがらせる妹に笑いかけた。
一方そのころ、ユディシュティラは瞑想の姿勢を解き、バラモンにうやうやしく話しかけていた。礼を取り、バラモンの足に触れ、こびへつらうようにふるまっている。最年長の従兄のそういうところを、スヨーダナはいつしか嫌悪するようになっていた。ビーマは井戸の壁が低くなっているところから身を乗り出しており、双子はずっと下の水面に浮いている球を指さしていた。
「スヨーダナ、太っちょの野郎をちょいと押してやりたいぜ」
スフシャーサナが物憂げに言うものだから、スヨーダナはもう少しで吹き出すところだった。
ユディシュティラがバラモンを井戸へ導いた。アルジュナも弓をしっかりと握ったままついてきた。そのあとにやせ細った女性が続く。砦の門には二人の衛兵が立っていた――その表情たるや、退屈を絵に描いたかのようだ。バラモンは井戸の中を覗き、肩にかけていた弓を下ろした。続いて矢筒から矢を一本取り、肩布《アンガヴァストラ》の端を矢羽根に結びつけた。それから彼の持ち物をまとめていた縄をほどき、肩布に結んだ。そしていかにも不安定な姿勢で井戸の上に身を乗り出したかと思うと、慎重に狙いを定め、暗く深い水面に向かって矢を放った。パーンダヴァ兄弟が歓声を上げたので、バラモンの矢は見事命中したことがスヨーダナにも知れた。
スヨーダナが弟に目を向けると、彼は驚きをもって一連の流れを見つめていた。暗い井戸の底、地上から三十歩の水面で揺れる球を射抜くなんて、並々のことではない。バラモンは球を引き上げ、鋭い矢じりから外して、最年少のパーンダヴァであるサハデーヴァが差し伸べた手の上に置いた。アルジュナはバラモンの足元に身を投げるようにして拝礼したが、敬うような優しさをもって助け起こされていた。
バラモンが五人の従兄弟に何かを尋ねているのがスヨーダナには見えた。ユディシュティラは興奮ぎみに王宮を指さしている。ビーマは何が起こっているのか必死に理解しようとしている顔で棒立ちになっていた。スヨーダナの目は、両親から数歩離れたところにたたずんでいる小柄なバラモンの少年に向いた。少年は周囲を見渡し、黄色く熟して陽の光にきらめいているマンゴーの存在に気づいた。彼は切望するようなまなざしで果実を見つめたかと思うと、地面を蹴ってそちらへ駆け出した。その手が果実に触れようとした瞬間、黒く小さな人影が藪の後ろから飛び出した。素早い動きで砂の上からマンゴーをつかみ取り、驚愕する少年の上を飛び越え、命が懸かっているかのように逃げ去っていく。あっけにとられていた少年が追いかけた。侵入者は背後を確かめながら逃走する。そのせいで前に立ちふさがるビーマの姿を見ていなかった。威嚇するように睨みつける巨体のパーンダヴァに彼が気づいたのは、前方に視線を戻した、ぎりぎりの瞬間だった。ビーマは戦闘態勢を取り、少年が正面に来るや、必殺の拳を頭に向かって放った。少年は攻撃をかわし、速度を落とすことなく流れるように姿勢を下げて、ビーマの脚を強く引いた。ビーマは顔から派手に転んだ。
スヨーダナとスフシャーサナはとうとう我慢の限界を迎えた。二人が腹を抱えて大声で笑いだすと、スフシャラーも加わり、興奮ぎみに小さな手を叩いてぴょんぴょん飛び跳ねた。
バラモンは振り返り、問題のマンゴーを抱えた浮浪児が王子たちに取り囲まれているのを見た。彼自身の息子はというと、数歩離れたところでわあわあと泣いていた。彼の敗北になぜだか他の皆も関心を持っていると気づき、もっと注目を集めようとしているのだ。五人の王子は、背の高いバラモンを先頭にして、逃げ場を失った浮浪児にじりじりと詰め寄った。
「衛兵!」
バラモンは門の近くに立つ者たちに向かって叫んだ。
退屈をきわめた兵士二人は、もたれていた壁からしぶしぶ身を起こし、一同の方へ重い足を運んだ。燃える太陽が草の一本一本までをも焼き焦がす中、自分たちを日陰から引きずり出した何者かを兵士たちは静かに呪った。王子たちとバラモンに睨み据えられ、浮浪児は恐怖に震えていた。目に殺意を浮かべるビーマは、先ほどの屈辱的な転倒で未だに顔をひりつかせていた。風向きが変わっており、スヨーダナと弟妹の耳にも会話がはっきりと届いた。
ビーマが浮浪児に向かって一歩踏み出すや、バラモンが言った。
「そやつに触れて己を穢すな」
ビーマは困惑した様子でバラモンを振り返る。バラモンは浮浪児に問うた。
「お前のカーストは?」
その問いが自らに投げかけられたものだと気づいた少年は、頭を下げた。名前も何もかも差し置いて、どうしてカーストを訊かれるのだろう――と少年は思った。彼はもごもごと答えを発したが、それは木の上にいるカウラヴァの王子たちには届かなかった。
「何だと? ニシャーダ〔訳注:狩猟・漁業などを生業とする先住民族〕の分際で、ハスティナープラの砦の主門にこれほど近づくとは! 不可触民が王族のための道を歩いていると? これが現王の統治というわけか? やはり所詮は盲者よ。規範《ダルマ》に反する行いが横行していても不思議ではなかったな」
バラモンは最年長のパーンダヴァを見やった。
「クル族の王国において、このような冒涜を行う不届き者に与えられるべき罰とは何だ?」
パーンダヴァ兄弟は揃って恥じ入ったかのように見えた。誰も答えを知らなかった。少年たちは互いに顔を見合わせた。
「俺、そいつの頭をかち割ってやるぜ」
ビーマが志願した。自分の半分程度の背丈しかないニシャーダの浮浪児にまんまと転ばされたせいで、彼の顔はまだ痛んでいた。
「黙っておれ!」
ビーマの顔から血の気が引いた。バラモンはユディシュティラに向き直り、言った。
「お前は次の王になるのだろう。この小童《こわっぱ》をどうすべきか、答えてみよ。我が義兄クリパがお前に何を教えてきたか、見せてもらおうではないか」
ユディシュティラは体をこわばらせ、正しい答えを思い出そうとした。
(クリパの義弟? ということは、あれがドローナ? 僕たちがずっと待っていた、有名な先生《グル》なのか?)
スヨーダナは驚きに目を見開き、皆が騒ぐ方へと坂を滑り降りた。そのあとを弟妹がついてきた。ドローナの発言には引っかかるところがあった――「次の王」という言葉だ。
(どうしてユディシュティラがハスティナープラの次の王になるんだ? 今のドリタラーシュタラ王の長男は僕なのに)
若い王子は思い惑った。
(パーンドゥ叔父上が父上の代わりに国を治めていたのは、父上の目が見えないからだ。だからって、いざという時に次の王様になるのはパーンドゥの息子、ってことにはならないぞ)
これこそ叔父シャクニに常々注意を促されてきた陰謀の筋書きに他ならなかった。
痩せて白い顔をしたバラモンの少年は、スヨーダナとその弟妹が近づいてくるのを見てとった。彼は不安げに三人を見やり、母親の方に身を寄せた。スヨーダナは少年の繊細な彫刻のような顔を見やった。その肩には巻き毛がふわりとかかり、曲線を描く口元と猛禽のくちばしを思わせる鼻筋は、彼の無垢さと内なる美を表していた。カウラヴァの王子はさりげなく少年に笑いかけた。
「アシュヴァッターマン、こちらへ来い」
バラモンに呼びかけられ、少年はおずおずと父親に歩み寄った。
「この不届き者にふさわしい罰とは何だ?」
アシュヴァッターマンが答えるより先に色黒の少年が駆け出した。途中でマンゴーを取り落としたが、小柄なアシュヴァッターマンを身軽に飛び越え、猿のように密林へと走り、捕獲者たちの手を逃れていった。アシュヴァッターマンは落ちたマンゴーを砂の上から拾おうとしたが、触れる間もなく父親に止められた。
「あの小僧を捕まえろ!」
誰も動かなかった。スヨーダナはガサガサと揺れる草木の向こうに色黒の少年が消えていくのを見送る。その草木もすぐに動かなくなった。王族の通り道を穢し、厚かましくも王家の土地から盗みを働こうとしたニシャーダを追って、衛兵たちは嫌々ながら動き出した。この程度の違反行為であれば取り沙汰しないのが衛兵たちの常であると、スヨーダナは知っていた。王宮の門にはいつだって貧者が集まり、残り物を漁っていたからだ。王族が実際に道を通行しているときを除けば、カーストの規則が厳密に適用されることはなかった。こんな下らない罪のために小童を追い回すには、今日はあまりに暑すぎる。衛兵たちは大げさに少年を捜すふりをしつつ、バラモンが彼らを放って立ち去り、賽子《さいころ》遊びの続きに戻れる時を待った。だが、バラモンは衛兵たちを放っておいてはくれなかった。彼は灼熱の太陽の下に立ち、無能なるハスティナープラの衛兵たちが犯人を捕まえるのを待ち続けていた。
「義弟《おとうと》よ、こいつは驚いた!」
呪縛を破ったのは王子たちの師クリパの大声だった。王子たちはすぐさま、揃って師に礼を取った。クリパは彼らに向き直って言った。
「暑い中で遊び回る以外にもやることはあるだろう? 昨日出した宿題は終わったか?」
「はい、お師匠様《グル・ジー》」
アルジュナが叫ぶように返答する。一方のスヨーダナは、すっかり忘れていた自分を心の中で罵った。
「お前たちは、あちらで昨日の授業の復習だ。俺は義弟をビーシュマの元へ連れていく。さて、旅路はどうだった? おお、アシュヴァッターマン! 大きくなったな。もう俺とそう変わらん背丈じゃないか」
言ってクリパは、母親の後ろに隠れている小柄な少年をつかまえようとした。
「クリパ、触れるな! アシュヴァッターマンはニシャーダの子に触ったのだ」
「何だって? くだらないことを言うでないぞ、ドローナよ」
クリパは、子鼠のような悲鳴を上げるアシュヴァッターマンの腰をつかんで抱き上げ、宙に放った。
少年の母クリピーは、兄が緊張を破ってくれたことに感謝し、にっこりと笑いながら立っていた。彼女の夫はまだ衛兵たちを見張っていたが、クリパは小さなアシュヴァッターマンを肩の上に乗せ、宮殿に向かって歩き始めていた。パーンダヴァの王子たちとクリピーがその後に続く。ドローナも、インド最大の帝国の規律の緩さを胸に刻みながら、しぶしぶきびすを返した。カーストの規則がこれほどあからさまに破られていることについて、クル族の摂政に苦言を呈さねばならなかった。
(雨の神々がお怒りになり、この土地に二年間も恵みを降らせてくださらぬのも、無理からぬことだ)
そう彼は思った。
一同が安全な砦の中に消えようとする瞬間、クリパ師の広い肩にちょこんと乗せられた少年が、集めたマンゴーを数えているスヨーダナと弟妹の方を振り返った。少年は彼らに微笑み、スヨーダナもニッと笑い返した。彼らのいずれも、この先の人生に何が待ち受けているのか、いささかも知りはしなかった。
***
先ほど藪の中に消えたニシャーダの少年が、捨てられ忘れ去られたマンゴーを拾いに駆け戻ってきた。スフシャーサナがすかさず少年の細い腰を抱えて捕らえたが、スヨーダナが足を踏み出すのを見て手を放した。少年は必死に涙をこらえ、ぼろぼろの服でも、できる限りの威厳を保とうとした。スヨーダナはマンゴーを拾って少年に差し出した。浮浪児は驚きのあまり固まった――だが手を伸ばし、貴重な果実をつかみ取った。
(どうしてそんなに驚いた顔をしてるんだよ、王子様? いや、お前に飢えの何が分かるはずもないよな)
そう思いながら、ニシャーダの少年は野の獣のようにマンゴーにかぶりついた。スヨーダナは幼い妹をそばに引き寄せ、その裾に包まれていたマンゴーを取り出した。抗議する少女をよそに、王子は集めた果実のすべてをニシャーダの少年の前に落とし、一歩退いた。
少年が王家の土地に足を踏み入れたのは、飢えに駆られたため。ひもじい思いをしている家族に食料を持ち帰るためだった。叔母は彼が衛兵に捕まるのではないかと恐れていた。もっと暮らし向きのよかった頃は、盗みなんて考えたこともなかった。だが貧困が道徳を凌駕せんとしたとき、許されることと許されざることの境界線が、どういうわけか霧消してしまったのだ。叔母が従兄弟たちと一緒に藪に隠れて一連の流れを見ていることを、彼は知っていた。彼らはもう二日間も何も食べていないのだった。彼が計画を打ち明けたときも、叔母はほんの少し反対しただけだった。だが今の彼は衝動的な思いつきを後悔していた。ハスティナープラの衛兵たちは間違いなく、カンダヴァの森の近くにある悪名高い牢獄へと彼を引きずっていくだろう。
「マンゴーは君にあげるよ」
若き王子が言った。
少年は一瞬、困惑して立ち尽くした。だが王子の気が変わる前にと、大急ぎでマンゴーを拾った。彼が自ら持てるのはわずか数個だった。スヨーダナは、必死の浮浪児の腕からこぼれ落ちたマンゴーを拾い集め、彼が強く抱え込んだ果実の上に重ねて置いた。
「さあ、見られる前に行くんだ」
スヨーダナは賽子遊びに夢中になっている衛兵たちを指さして言った。
少年は、固唾を呑んで見守っている叔母の方へと走った。だが密林に入ろうとした瞬間、スヨーダナに呼ばれた。少年の心臓が跳ねた。あの王子は贈り物を取り返す気なのだろうか? 彼の目に怒りと焦燥の涙があふれた。
ニシャーダの少年はぴたりと足を止めた。振り返ると、王子は笑顔を浮かべて手を振っていた。
「ねえ、君の名前は?」
頭上で太陽が燃えていた。足元の大地は猛烈な熱に溶けていくかのようだった。彼は大きく息を吸い、叫び返した。
「エーカラヴィヤだ」
自らの大胆さに驚きながらも、彼は王子の返答を待つことなく、安全な密林の中へと駆け戻っていった。
***
暑い午後、だらだらと授業は続く。そんな中、スヨーダナは座ったまま考えていた。エーカラヴィヤの飢え疲れた顔のこと――そして彼を王家の土地に侵入せしめた貧困のこと。新しい師匠《グル》に聖典の理解度を見せつけて感心してもらおうとするアルジュナの熱っぽい声を耳から締め出して、スヨーダナは哀れなニシャーダの少年を思い続けた。
(あの子とあの子の部族について、もっと知らないといけないのかもしれない)
そう思うスヨーダナの目にふと、父親の近くに座ってにっこりと微笑むアシュヴァッターマンが映った。少年たちは笑みを交わし、この授業の退屈さをまなざしで語り合った。この年頃の少年にしかできない、無言の会話だ。
「スヨーダナ、ぼんやりせずに聞け!」
ドローナ師の怒声が単調な授業を揺るがし、生と夢の世界を歩んでいた若き王子を、経典や聖なる本の無味乾燥な領域へと引き戻した。
アルジュナとユディシュティラが、互いに競い合ってヴェーダを暗唱している。スヨーダナは必死に眠気と戦った。外では大地が沈みゆく太陽の赤に染まっていた。そして王宮から遠く離れたところでは、疲れきった黒い肌のニシャーダ女性と彼女の五人の息子たちが、長い飢えから解放され、満たされて眠っていた。ニシャーダたちから数歩離れたところでは、別の小さな男児が、彼らの捨てたマンゴーの種をかじっていた。
〈本編へ続く〉
***
〈解説〉
『AJAYA』では、マハーバーラタ原典において接頭辞「dus-」で始まる人物名(ドゥルヨーダナ、ドゥフシャーサナ、ドゥフシャラーなど)が、基本的に「su-」で始まるバージョンに置き換えられている。サンスクリット語接頭辞の「su-」は「良い」を意味するため、たとえば「スヨーダナ」は「良き戦士」ほどの意味合いとなる。
他方、「dus-」には「悪い」「~しがたい」などの意味合いがある(これが変化して「dur」「duh」などの音になる)。著者は本書前書きにおいて、「“ドゥルヨーダナ”の意味のひとつに“征服しがたき者”、言い換えれば“アジャヤ”(征服しえぬ者)というものがある」と肯定的な解説をしつつも、『AJAYA』作中における他称としての「ドゥルヨーダナ」は「力や武器の扱い方が分からぬ者」という蔑みを含んだものだとしている。
一部先読みは翻訳作業中のもので、完成版では異なる可能性があります。あらかじめご了承ください。
序章 ガーンダーラの一部読みはこちら
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